へぐり町は、美しい山々に囲まれた自然と歴史に恵まれたまちです。
古墳時代から戦国時代までの悠久の時を古墳や史跡、文化財などで存分に感じることができます。
嶋左近清興は、大和国平群郡の国人※・嶋氏の出自です。嶋氏は鎌倉時代末には平群谷に地歩※を固め、南北朝~室町時代にかけて勢力を伸ばしたようで、奈良・興福寺一乗院門跡に仕える坊人※であり、また平群谷内の興福寺領荘園(しょうえん)である福基寺庄(ふきでらのしょう)・大内庄(おおうちのしょう)の下司職※を務めていました。
嶋氏は、戦国時代以前から大和の有力領主である筒井氏と行動をともにしており、文明年間(1469~87)に河内国の守護・畠山氏の内紛が大和国に波及し、敗北した筒井氏が没落した際には、嶋氏も本拠地を追われていることが記録に見えます。
左近が誕生したと考えられている天文(てんぶん)年間(1532~55)には、畠山氏の家臣・木沢長政(きざわながまさ)が信貴山城を拠点として大和に侵攻しており、のち永禄二年(1559)には戦国の梟雄※として名高い松永久秀が同城に入城、織田信長の後ろ盾もあって大和の国人衆を駆逐※し、元亀(げんき)年間(1570~73)にかけて大和のほぼ全域を軍事的に支配するなど、大和国人衆は他国勢の侵入に苦慮※していました。
左近はこの時期、久秀に敵対して本拠地の筒井城(大和郡山市筒井町)を追われていた筒井順慶に従って、平群谷を離れていたと思われます。しかし、元亀二年(1571)八月、順慶は久秀と激突した辰市※合戦で大勝、天正(てんしょう)四年(1576)五月には織田信長から大和一国の支配権を認められるなど、俄然勢力を盛り返します。久秀は翌五年八月に織田信長に背き、十月に信長の嫡子※である信忠らの軍勢に攻められて信貴山城に滅びました。
左近はこの頃には平群谷に戻り、椿井城を修築したのではないかと考えられていますが、現時点ではよくわかっていません。ただ、天正九年(1581)に順慶が葛上(かつじょう)郡の国人・吐田遠秀(はんだとおひで)を謀殺※した際には、左近が吐田氏旧領(御所市豊田周辺)の支配を任されるなど、順慶の大和支配を支える存在であったことは間違いありません。
天正十二年八月に順慶が病没すると、後継となった養子の筒井定次は翌年、豊臣秀吉の命により伊賀国に国替えされました。左近も定次に従って伊賀に移りますが、やがて筒井氏のもとを去って石田三成の麾下※で活動することになります。左近が伊賀を去った時期や理由は定かではありませんが、秀吉の小田原攻め(天正十八年)の際、三成から佐竹氏への使者を務めていることが記録に見えるため、この頃までに三成の配下となっていたことは確かなようです。
のちに三成が支配する近江佐和山(滋賀県彦根市)へと移った左近は、佐和山城下の一等地(現・清凉寺)に屋敷を与えられ、琵琶湖の内海(松原内湖)に百間橋(ひゃっけんばし/全長約540m)を架けるといった土木工事にも功績を遺しました。また、文禄四年(1595)には、秀吉政権が実施した文禄検地において平群郡岡崎村(現・安堵町)の検地奉行をも務めており、軍事のみならず内政面でも活躍しています。
関ケ原の戦い前日の慶長五年(1600)九月十四日、大垣城(岐阜県大垣市)に集結する西軍に対し、東軍の総帥・徳川家康が目と鼻の先の美濃赤坂に着陣しました。左近は動揺して浮き足立つ自軍の士気を上げるため東軍勢に小戦を仕掛け、計略を用いて東軍の中村・有馬隊を撃破しました。しかし翌日に行われた本戦では開戦早々に黒田長政隊の銃撃を受け負傷、以後の消息は不明ながら戦死したとする見方が多いようです。ただ、京都の立本寺(りゅうほんじ)にある左近の墓とされるものや過去帳では、寛永九年(1632)六月二十六日没とあり、他にも複数の生存説があることから、その最期は今も謎に包まれています。
椿井城は、平群谷の東を南北に走る矢田丘陵の南端近くの尾根上に存在する山城で、南北約310m、東西約110mの規模で築かれています。城跡は南北2つの頂部があり、一段高くなっている北側が主郭(本丸)と考えられます。現地には、土橋・土塁・堀切・石垣といった遺構が残っています。
築城時期や城主に関する信頼できる史料は確認できませんが、室町時代から戦国時代までの間に築かれたのではないかとみられています。ただ、平群町には古くから在地土豪※の椿井氏がおり、城の南西麓にある平群町椿井付近には「貴殿(こどの)」「城垣内(じょうがいと)」という地名も残っているため、椿井氏が築城し一帯を本拠としていた時期があった可能性も否定は出来ません。
伝承では嶋左近の居城とされ、西麓の平等寺地区には左近の居館として平等寺館の存在も伝えられますが、近年の調査で城の東側に土塁や石垣の一部が残っていることがわかったため、平群谷を制圧した松永久秀が築城または修築した可能性も考えられます。もしそうであれば、久秀は信貴山城の出城(支城)として椿井城を活用していたのかもしれません。
嶋左近の居城だったことも否定はできませんが、久秀が大和に侵入した永禄二年(1559)から滅亡した天正五年(1577)までの間はまず考えられず、加えて椿井城は天正八年の織田信長による破城令により廃城となっているため、左近が在城していたとしても三年未満ということになります。
このように椿井城跡は、中世山城の構造を知る上で貴重な遺跡であるとともに、室町~織豊期※大和の政治史を考える上でも重要な示唆※を与えてくれています。
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