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へぐり古今東西

へぐり町は、美しい山々に囲まれた自然と歴史に恵まれたまちです。
古墳時代から戦国時代までの悠久の時を古墳や史跡、文化財などで存分に感じることができます。

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  • 倭建命

    第12代景行天皇の皇子で日本神話に登場する悲劇の英雄です。倭建命は武略を活かし各地の豪族を平定しますが、西伐から帰ると休む間もなく景行天皇より東伐を命じられました。幾多の危機を乗り越え無事大和の国へ帰る途中、伊吹山で山の神の化身である白い猪に出会いますが、どうにか逃げ出すことができました。能煩野(のぼの。三重県亀山市付近)で休養しましたが回復せず、大和の国に思いをはせながら、「国偲びの歌」を詠み、その悲劇の生涯に幕を下ろしました。

  • 平群木菟

    平群町周辺の地で勢力を持った、天皇家と肩を並べるほどの豪族・平群氏の祖始者(そししゃ)と云われる大臣(おおおみ)です。 武内宿禰(たけうちのすくね)の四男の木莵が生まれた時に産屋(うぶや)にサザキが飛び込み、同じ日に生まれた大鷦鷯(おおささぎ。後の仁徳(にんとく) 天皇) の産屋にはミミズクが飛び込みました。 この縁から二人の名前を交換し、主従の深い関係を結んだと云われています。
    ※サザキ…スズメ目のミソサザイ科の鳥

  • 平群鮪

    日本書紀にも登場する豪族・平群氏の三代目で悲恋の物語「影姫物語」に登場します。鮪は大連(おおむらじ)物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘・影姫と相思相愛の仲でした。その影姫に皇太子(後の武烈(ぶれつ)天皇)が結婚をせまりましたが、歌垣(うたがき)で影姫に断られてしまいます。そのことが仇となり、怒った皇太子は多くの兵を集め、乃楽山(ならやま。奈良市北部)で鮪を殺してしまったとのことです。

  • 聖徳太子

    飛鳥時代の皇族で仏教中心の国づくりを進めようとした政治家です。聖徳太子は、仏教反対派の物部守屋(もののべのもりや)と激しく争い、苦戦する中、山中で必勝を祈願したところ、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天(びしゃもんてん)が現れ、そのご加護により太子軍は勝利しました。これにより聖徳太子がその地を「信(しん)ずべき貴(とうと)ぶべき山“信貴山”」と名付けたと伝えられています。

  • 平群神手

    『日本書紀』の中で平群氏は、応神(おうじん)朝の時代から軍事氏族として活躍が見られます。その中でも平群神手は、587年の記述に聖徳太子側の副将軍として物部守屋(もののべのもりや)征伐に大きな働きを見せた武人として登場します。後に、684年の八色の姓(やくさのかばね)の施行に伴い、平群氏は改めて朝臣(あそん)姓を賜りました。
    ※朝臣…八色の姓で上から二番目の位。

  • 役行者

    役小角(えんのおずぬ)とも呼ばれ、日本各地に伝説を残す修験道の開祖と言われています。飛鳥時代に現在の御所市で生まれ、金剛葛城山から信貴生駒山系で修業をしました。その後、平群の鳴川山(なるかわさん)に千光寺(せんこうじ)を開きました。後に吉野山上ヶ岳(さんじょうがたけ)などの霊場を開いたことから、元の修行場として「元山上(もとさんじょう)千光寺」と呼ばれています。

  • 長屋王

    天武天皇の子である高市皇子(たけちのみこ)の子として生まれ、聖武天皇が即位すると左大臣となります。皇親政治家として活躍し、有力な皇位継承者と目されたと思われますが、729年、謀反の罪を着せられ自害に追い込まれるという「長屋王の変」が起こり、悲劇的な結末を迎えます。
    『万葉集』や『懐風藻(かいふうそう)』にも歌がおさめられている文化人でもあります。

  • 吉備内親王

    草壁皇子(くさかべのみこ)と元明(げんめい)天皇の娘です。長屋王の妃として、四人の子どもにも恵まれました。また、長屋王とともに仏教への信仰が厚く、薬師寺の東院堂(とういんどう)を建立しました。幸せであったであろう内親王の人生も、皇位継承に関すると云われる謀略「長屋王の変」で悲劇的な幕を閉じます。長屋王同様に、内親王と子どもたちも自害へと追い込まれました。

  • 平群廣足

    朝廷儀式や諸社祭で舞われていた雅楽「倭舞(やまとまい)」の名手として知られた官人です。長屋王邸跡から出土した木簡などから、長屋王に尊敬の念をもって仕えていたことがうかがわれます。また、同時に雅楽寮(うたりょう)から長屋王にあてた廣足の派遣要請を記した木簡も出土しており、廣足が倭舞の名手として高く評価されていたことがわかります。

  • 平群廣成

    廣足とほぼ同時期の官人で、733年に遣唐使の判官(じょう)として唐に派遣されました。帰国の途中に難破し、崑崙国(くんろんこく)まで漂流しますが、水夫3名と廣成だけが生き残り、無事帰国を果たしました。帰国後は順調に官位を進め、最後には従四位上に任ぜられました。古代の日本の中で最も広い世界を見た日本人かも知れません。
    ※崑崙国…チャンパ王国、現在のベトナム中部沿岸地域 ※判官…律令制における4等級の官職の3等官
    ※従四位上…長官(かみ。律令制における4等級の官職の1等官)に準じる位

  • 行基菩薩

    仏教が国家のものであった時代に、禁を破り民衆や豪族を問わず広く仏教の教えを説き、人々に崇敬された奈良時代の僧です。畿内を中心に広い地域で寺院や道場を建立すると共に、ため池や橋や溝のほか貧しい人々のための布施屋(ふせや)をつくるなどの社会事業を行いました。東大寺の大仏建立の中心としても活躍し、大僧正となりました。竜田川の龍神が行基菩薩を迎え、生駒・平群谷への布教の拠点として金勝寺を創始したと言われています。

  • 在原業平

    平城(へいぜい)天皇の孫で才色兼備の貴族です。伊勢物語の主人公「昔男」は業平であると古くから云われています。天理市櫟本(いちのもと)の在原寺(在原神社)から、奈良盆地を西に十三峠を越えて、八尾に住む女性のもとに通ったと云われ、その道は「業平道」と呼ばれています。歌人としても有名で、六歌仙・三十六歌仙のひとりと称され、竜田川を詠んだ歌が「古今和歌集」に収められています。

  • 道詮律師

    平安時代前期の高僧で東大寺で学び、空海とも親交が深かったと言われています。大極殿(だいごくでん)で開かれる御前論議の座主などに任じられ、864年に律師に昇任しています。聖徳太子を尊崇し、法隆寺夢殿の再興に努めました。晩年、平群町の福貴に隠居し、福貴寺(白山神社)を建立。法隆寺へ学問を教えに通ったことから「福貴の道詮さん」と呼ばれ、親しまれたと云われています。

  • 命蓮上人

    平安時代の高僧で、信貴山中興(ちゅうこう)の祖です。強い法力(ほうりき)を持つと云われ、その姿は国宝「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」に描かれています。巻の二「延喜加持(えんぎかじ)の巻」で描かれているように、劔鎧護法(けんがいごほう)を枕元に使わして醍醐天皇の病を治したと伝えられ、その功績より信貴山寺は、「信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)」の名を賜りました。
    ※中興…いったん衰えていた物事や状態を再び盛んにすること。

  • 楠木正成

    鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍し、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれました。尊氏の反抗後は南朝軍の一翼を担いますが、湊川(みなとがわ)の合戦で敗れ自害しました。正成は母が信貴山の毘沙門天(びしゃもんてん。多聞天)に100日お参りして授かったと云われ、幼名を多聞天丸と名付けられました。建武の新政時に、兜や軍旗を信貴山に奉納しています。

  • 嶋左近

    嶋左近清興(しまさこんきよおき)。槍を得意とする勇将として戦国の世に名を馳せた武将です。興福寺領・福貴寺庄(ふきでらのしょう)の下司職(げししき)から武士化し、南東に勢力を広げ、椿井を支配地としていた椿井氏を追い払い、平群谷一帯を支配下に置いたと言われ、大和の国に侵攻してきた松永久秀と激しい戦いを繰り広げました。後に石田三成の家老となり、関ヶ原の戦いで徳川軍相手に獅子奮迅(ししふんじん)の活躍の末、戦死をとげました。「三成に過ぎたるものが二つあり、嶋の左近と佐和山の城」とうたわれるほどの逸材と言われています。

  • 松永久秀

    松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)。「乱世の梟雄(きょうゆう)」と呼ばれ、戦国の世に名を馳せた武将です。築城術に優れ、また、火縄銃をいち早く戦に取り入れるなど、武将として高い評価を得ています。三好長慶の家臣として力をつけ、大和の支配を目指して信貴山城に入り、城を整備し、南都・多聞城を築きました。織田信長から大和支配を許されるほどの権勢を誇りましたが、信長に二度背き、天正5(1577年)10月10日、信貴山城で信長の望んだ平蜘蛛(ひらぐも)茶釜と共に、爆死を遂げました。

平群町歴史の概要

平群町は、奈良県の北西部に位置し、東に矢田丘陵、西に生駒山系があり、中央を竜田川が流れています。倭建命が「たたみこも平群の山のくまがしが葉を…」と歌に詠んだように、周囲を緑深い美しい山々に囲まれています。はやくから文化が開け、名所・旧跡が数多くある、豊かな「自然」と「歴史」に恵まれたまちです。

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