へぐり町は、美しい山々に囲まれた自然と歴史に恵まれたまちです。
古墳時代から戦国時代までの悠久の時を古墳や史跡、文化財などで存分に感じることができます。
戦国時代の梟雄※とも呼ばれる松永久秀の出自・出生や前半生は、よくわかっていません。生年は永正(えいしょう)七年(1510)とされますが、確証はなく真偽は不明です。出自についても山城・摂津・加賀・筑前・阿波・豊後・近江などの説がありますが、近年では山城西岡または摂津五百住(よすみ)村の出自とする説が注目されているようです。
久秀は、初め三好長慶(ながよし)に仕え、祐筆※を務めたとも言われますが、天文(てんぶん)十一年(1542)頃には既に三好家で一隊を率いる立場にあることが記録に見えており、この頃には三好家中である程度の地位にあったようです。
その久秀が永禄二年(1559)八月に大和へ侵入、有力国人※だった筒井氏は本拠地を追われて没落しました。久秀は信貴山城に腰を据えると、程なく南都※を見下ろす眉間寺山※に多聞山城(たもんやまじょう)を築き、息子の久通を入らせて国人たちを次々と配下に収めていきました。
三好長慶が永禄七年七月に没すと、養子の義継が跡を継ぎました。そして、翌年五月に義継や三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政康・岩成友通)らの軍勢によって、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害される事件が起こります。これは久秀の悪行の一つとして知られますが、当時京都で書かれた日記などには、久通の名は見えるものの久秀の名は見当たらず、久秀は義輝殺害事件に積極的には関与していない可能性があります。
久秀には、有能な三好家の将(しょう)で丹波方面で活躍していた長頼という弟がいました。しかし、長頼は義輝殺害事件直後の八月、丹波黒井城(兵庫県丹波市)をめぐる戦いで敗死。この影響か久秀はやがて三好三人衆と対立して家中は分裂します。永禄十年に両者は奈良で激突し、久秀は勝利したものの十月十日に東大寺大仏殿が焼けてしまいました。これも久秀が焼いたとも言われていますが、三好方の失火・放火説もあり、真相は不明です。
翌年、織田信長が後に十五代将軍となる足利義昭を奉じて上洛すると、久秀はいち早く信長の配下に入り、その後ろ盾を得て大和攻略を進めました。この時、信長に差し出したのが「九十九茄子(つくもなす)」と呼ばれる大名物(おおめいぶつ)茶器で、久秀が一千貫※もの大金を投じて買い求めたと伝えられています。
元亀(げんき)元年(1570)、信長は越前(福井県)の朝倉義景討伐に向かいますが、義弟・浅井(あざい)長政の謀反により窮地に陥りました。その際には久秀が北近江の土豪・朽木元綱(くつきもとつな)を説得して退路を確保し、信長を無事に京都へ退却させています。ところが、翌二年八月、筒井順慶らと戦った辰市※合戦で久秀は大敗、形勢は一気に逆転し勢力は急速に衰えました。
久秀は、将軍義昭の企てた「信長包囲網」※に加わり、甲斐(山梨県)の武田信玄(しんげん)が上洛を開始すると、信長に背きました。しかし、天正(てんしょう)元年(1573)四月に信玄が陣中で病没、義昭も信長によって京都から追放され、三好義継もまた若江城※の戦いで討たれたため、望みを失った久秀は多聞山城を信長に差し出して降伏しました。
この後の久秀に目立った動きはなく、天正四年(1576)五月には筒井順慶が信長から大和支配を認められました。そして翌年八月、信長の石山本願寺(大阪城付近)攻めに出陣中だった久秀は、突然戦線を離脱し信貴山城に立て籠もります。信長は、息子の信忠を総大将として信貴山城攻めを行いました。
久秀は、さほど抵抗もできず十月十日に信長が欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)」を粉々に叩き割ると、城に火を放って自刃しました。大仏殿が焼けた永禄十年十月十日からちょうど十年後の十月十日、久秀も灰になりました。大仏殿の焼けた翌日は雨でしたが、信貴山落城の翌日もまた冷たい雨が降っていたそうです。
信貴山城は、平群谷の西を南北に走る生駒山地の南部にそびえる標高437mの信貴山・雄嶽(おだけ)を中心とする城跡で、南北約700m、東西約550mの規模があり、奈良県では最大級の規模をもつ中世城郭(じょうかく)です。
築城者については楠木正成とする説があり、信貴山中腹にある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)には正成の花押(かおう)と年月日(元弘元年[1331]九月十日)が墨書きされた「菊水の旌旗(せいき=軍旗)」が奉納され現存します。ただ、この頃は城というより小さな砦(とりで)のようなものと考えられており、本格的な築城は天文五年(1536)、河内畠山氏の重臣で当時家中の実権を握りつつあった木沢長政(きざわながまさ)が行いました。しかし、同十一年三月に長政は三好・細川氏らとの戦いで敗死、信貴山城も炎上し落城しています。
その後約十七年間は城として使われた形跡は見えず、永禄二年(1559)に三好氏の重臣・松永久秀が築城して入り、南都に築いた多聞山城とともに、大和支配の拠点として利用しました。
信貴山城は基本的には土で造られた城郭で、最高所の雄嶽山頂には小規模ながら天守(高櫓:たかやぐら)が建てられていたと考えられています。また、北側に延びる主尾根には土塁と門のある居館施設があったと推測され、古絵図などには「松永屋敷」の記述が見えます。
天正五年(1577)、久秀は織田信長に背いて城に立て籠もり、織田勢の大軍に包囲されます。最期を悟った久秀は、かねてから信長の望んでいた名物茶器・平蜘蛛茶釜を粉々に砕いたのち自害し、松永氏は滅亡しました。城はこの後再築されることはなく、久秀の死とともに廃城となっています。
戦国の梟雄とも呼ばれる久秀ですが、一方では千利休と茶の師匠を同じくする文化人でもありました。信貴山城跡からは茶臼や石臼の破片が採取されており、久秀の茶道とのつながりが偲ばれます。
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